「言葉にならないものの方が、やっぱり、圧倒的に多いですよね」。たくさんの物語を生み出してきた作家、川上未映子は言う。その言葉どおり彼女の作品では、私たちが日々の暮らしの中で出合う“言葉にならない瞬間”が、リズミカルに拾い上げられていることに気づく。「悲しみにも実は無数のグラデーションがあるけれど、私たちはそれを『悲しい』とひと言でくくってしまう。そういう意味では言葉って、本当は何を言ったことにもならないですよね。けれど、『悲しい』という言葉でなくても、空気や光の角度、匂いでその感情は表せるかもしれない。みんな見たことはあるけれど再現されていない風景やラベリングされていない感情……、私にとって書くこととは、そういったものを翻訳している感覚に近いかもしれません」。見慣れた景色の中にあるものの姿形を言葉を使って翻訳していく。それは、自分たちが生きる世界の解像度を上げていく作業でもある。川上さんの言葉は、ただ美しくて楽しいだけではない。そこには、生きることを誠実に見つめる強さが息づいている。
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「東京は、私にとって学びの街」。 今回の撮影場所に選んだのは、お茶の水駅近くの聖橋から神保町へと続くエリア。「シングルマザーの家庭で育ったので、10代後半から自分でお金を稼がないといけなかったんです。高校には行ってたけど、大学に進学できる余裕はなくて。弟の学費も捻出しないといけなかったので、大阪・北新地のクラブでホステスをしていました。でも、どうしても哲学を学びたくて、調べてみたら大学には通信学部っていう制度があることを知ったんです」いろいろと調べて、面白そうなカリキュラムが多かった日本大学の通信課程を選んだ。「授業料は年間8万円で、たくさん試験も受けられて、ものすごい量の教科書がついてきたんです(笑)。それがもう嬉しくてしょうがなかった。19歳から23歳まで、大阪で働きながら年に一度だけ1カ月間のお休みをもらって東京でのスクーリングに通っていました。通信教育ってうまく想像できないかもしれないけれど、学びたい人にとってはとてもありがたいシステムなんです。朝から晩まで講義を受けて、さらに問いが浮かんで議論が深められると思ったら自分で短い文章を書いて、翌日すぐに先生にみてもらったり。質問に答えてくれる、あるいは議論してくれる人がいるなんて、最高に幸せでした。あとは神保町の古本屋へ。何時間でもいられました」。聖橋から電車を見送りながら、川上さんは言う。「あの夏の1カ月間の思い出は、私にとって本当に大切なものです。勉強って何かを手に入れることじゃなくて、自分の問いにどう向きあっていくのかを粘り強く探り、知っていくこと。そのときは自分が小説を書くなんて想像もしてなかったけれど、この時期に重要な書物をしっかり読み、考える方法を自分なりに身につけたことは、今の仕事のすべてを支えていると思います」川上さんにとって、神保町は単なる街ではない。「出会った人たちのことも、よく覚えています。ここには、いろいろな事情を抱えながら、それでも、なんとか学ぼうとする人たちが集まっていた。そこにいるだけで、勇気をもらえる場所なんです」。

「ファッションって、人の生き死にと、結びついているように思うんです」と、川上さんが話してくれたのは母のこと。「亡くなって1年以上経つんですが、私は母のことが大好きなんです。母の病気がわかった時に服をプレゼントしたのですが、母が亡くなってから、一度、袖をとおしたことがあります。遺された衣服を身につけることは、母のパースペクティブを共有することでもあります。それはほかのどんな思いだしかたとも違うかたちで、母を体験するような『出来事』なんです」。服は単なる装いではなく、記憶や思い出、人との関係までも含んで自分の精神と響き合うもの。「ファッションは個性を表すものでもあるけれど、私にとっては考え方や記憶、思い出、人間関係と繋がっていて、生きることそのものと結びついているものです」。
 撮影の日に着用したのは、テーラリングやものづくりの背景にまでしっかりとこだわるSA VILLE / SA VIEのドレスやシャツ、ジャケット。「どれも形がきちんとしているのに緊張しすぎない。軽さも絶妙で、普段着として自然に着られるのがいいですね」と、川上さん。ジャケットにドレスを合わせたオールブラックのスタイルは、「ボリュームのあるものにレーシーな素材を合わせると、普段着でも特別な感覚になる。服を通して、自分の知らなかった一面に出会えるんです。いい服の条件って、知らなかった自分の一面を発見することだと思います」と、話してくれた。

「すとんとしたラインの服は、私の体型に似合わないと思ってたけど、写真を見て、とても新鮮な気持ちに」
「28か29歳に、詩を書いたことですね」。人生の転機となった出来事は?という問いに、音楽活動の契約が終わりすべてが白紙になった時期のことを話してくれた。 「最初から何もなかったけど、本当に1人になってしまった。でも、すごく清々しい気持ちにもなって何をしようと思った時に、言葉のことなら何時間でも考えられると思ったんです」。雑誌『ユリイカ』に詩が掲載されたのはその頃だ。「『やっと始まった』と『もうこれでぜんぶおしまい!』という感覚が同時にやってきました。そのあともいろんなものを書いてきましたが、詩を書いたときのあの引き裂かれるような、それでも圧倒されるような感覚の余韻で書いているような感じもしますね」。

考えて考えて生み出された言葉が紡がれた物語には、国内のみならず海外にも多くのファンがいる。読者は、川上作品を通してもう一度自分自身と向き合い、前を向くきっかけをもらうのだ。「自分の人生は一回しかないから、他者の経験や物語に触れることで、自分がここにいる意味を、あるいは意味のなさを、実感できる。それが文学の役割のひとつだと思います」。川上さんのように書くことを生業にしたいと思う後進にはどんな言葉をかけるのか?「どんな状況でも一生懸命やるしかないんですよ。それが本当に必要なことだったら、頑張るっていう感覚もなく、やるしかないだけのことだから」。その言葉が私たちの胸に響くのは、彼女自身が自分に正直に生きてきたから。「打算はよくない。“これをやったらこうなるかも”と思ってやることは、芸術には関係ない。芸術って、自分が掴みに行くものじゃなくて、向こうが掴みに来るものです。だから、いつそれが来ても耐えられる自分でいなきゃいけない」。失敗を怖いと思ったことはあるかと聞くと、 「失敗? ぜんぜん怖くないです。失敗するのは、何かに真剣に取り組んでいるからですよね」と、優しく笑う。母でもある川上さんは、子どもを学校に送る時、毎朝こんなおまじないの言葉をかけていたそう。「1から4までの、毎朝のおまじない。私が息子に教えたのはこれだけです(笑)。『いっぱい笑うこと、いっぱいご飯を食べること、いっぱい遊ぶこと、そしていっぱい失敗すること!』」。失敗の先にこそ、生きる力や言葉がある。 川上未映子という作家が、今も読者の心を揺さぶり続けるのは「弱さの中にも確かな真実がある」ことを誰よりも知っているからだ。
ポケットの位置からサイジングまで、すべてがしっくりくるSA VILLE / SA VIEのジャケットに、センシュアルなレースをたっぷりと用いたドレスを合わせて。
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「これは作品や表現者に限ったことですが、やっぱり満身創痍の表現ものに私は美しさを感じます。それがなんであれ、余裕のあるものには、そういった美しさは感じないですね」。川上未映子が語る“美しさ”は、完璧さの対極にある。傷つきながらも、なお生きようとする人の姿にこそ真実の輝きが宿っている。
「10代、20代に贈りたい自身の本は?」という問いに、少々ためらいながら2冊の本をピックアップしてくれた。「『ヘヴン』と『黄色い家』でしょうか……2冊とも真面目に生きる人たちを描いています。『黄色い家』の主人公・伊藤花は15歳で理不尽な現実に直面するのですが、それでも彼女は誠実に自分の足で立とうとする。人間の生のエネルギーを感じられると思います。人生は1回きりだっていう実感を味わってもらえたら嬉しい」。彼女の言葉は、若い世代に向けたエールでもある。傷を抱えながらも、真面目に生きるその姿こそが美しいのだと教えてくれる。

来年50歳。人生100年時代、ちょうど折り返し地点を迎える。「そうですね。つらいこと、悲しいことも増えてきました。母も父も亡くして、これからは、基本的に別れの季節ですよね。体だって、できないことが増えていく」。そう言いながらも、川上さんの声はどこか清々しい。「でも、いよいよ覚悟が決まってくるというか、これからは“下り方”を学ぶ時期に入ったなと思うんです。なんだって、登りより下るほうが大変です。だから、私は下り方を若い人たちに見せたいかな。ちゃんと動けなくなっていくところも含めて、書いていきたいです。たくさんの先人たちがそう見せてくれたように、私もちゃんと役目を終えて生きていく年齢になったなと思っています。これからどれくらい、この世界にいられるかはわからないけれど、若い人たちには “楽しいことがまだいっぱいあるよ” って最後まで言いたいですね」。
「若い頃に出会って、たくさんのことを教わりました」と、最後に、宝物の一冊として持って見せてくれたのは、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』(早川書房)。「人生の中でも辛いことが続いた時期は、ほとんど何も読めませんでした。そんななか、病床の母とのやり取りに、悲しみの中にも大阪らしい私たちの笑いがあることを感じて。ああ、私の中にあるユーモアって、ヴォネガットから学んだことでもあったんだって気づいたんですよね。これまでも『ユーモアが大事』なんて頭ではわかっていたつもりだったけれど、本当に腑に落ちたというか、すごく体幹に近いところで理解できた気がします」。海外への長期のブックツアーに出る前夜、何を持って行こうか迷った末に手に取ったのがこの本だった。「母を亡くして、立ち直れなくて、いろんな夜を過ごしました。どんな本も、今の私には怖かった。でも、この本だけは──不思議なんですが、怖くないんです。 こんな物語を書いたヴォネガットという作家が生きていた、そして素晴らしい仕事をしてこの世界を去ったんだということを思うだけで、安心して眠れる夜があります。10代でこの本を読んで感じた力が、今もずっと効いているんです。これからも何度でも読み返す、本当に大切な物語です」。 笑いと涙のあわいにある川上未映子の人生哲学が、言葉となり、また違う誰かへのエールとなって繋がっていく。
大阪府出身。作家・詩人。2008年『乳と卵』で第138回芥川賞を受賞。以後、『ヘヴン』(10年・芸術選奨文部科学大臣新人賞および紫式部文学賞)『すべて真夜中の恋人たち』(23年全米批評家協会賞最終ノミネート)『黄色い家』(第75回読売文学賞受賞)など、数多くの作品を発表。詩、評論、エッセイにも活動の幅を広げ、現代文学を牽引し国内のみならず海外でも高い評価を得ている。『ヘヴン』の英訳は22年、国際ブッカー賞最終候補に選出され、25年にはイタリア、スイス、ドイツなどを巡る欧州ブックツアーを開催。世界中の読者と“言葉の力”を共有している。11月20日に『黄色い家』の文庫版が発売、2026年には『すべて真夜中の恋人たち』の映画が公開予定。

Stylist : Mihoko Sakai
Hair&Makeup : Mieko Yoshioka

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